映画タイタニックを「男女がいちゃいちゃして船が沈む映画」くらいギュッと要約するとすると、嘔吐は「ニートが公園の木をみて急に吐きそうになる本」だ。

が、これだと若干荒すぎるので、もう少しちゃんと詳しく解説する。

『嘔吐(La Nausée)』は、世界中に大きな影響を与えた20世紀の哲学者ジャン=ポール・サルトルが著した小説であり、実存主義のバイブルの1つとしても知られている。

小説の主人公ロカンタンは、30歳にして働かず、人ともあまり関わることもせず、親の遺産を頼りに暮らしていた。彼の生活は図書館とカフェを毎日往復するだけの、孤独で単調なものであった。

ある日、ロカンタンは公園でマロニエの木を見ていると、急に吐き気に襲われた。なぜだろうか?それは、ロカンタンの意識下でマロニエの木から「意味」や「目的」などといったヴェールが剥がれ落ち、「現実の存在(=実存)」としての木そのものの裸形が彼の目の前に立ち現れたからである。いや、ロカンタンにとってそれはもはや「木」ですらなく、ただそこに存在するだけの得体の知れない何かであった。

 

このロカンタンの吐き気は、一種の病的な体験のようにも描かれているが、実は私たちも同じような体験を日常的にすることがある。

たとえば、「ろ」という文字を紙に書いて、長い間じっと見つめてみよう。すると、文字が文字とは思えなくなって、気味悪くうねる黒い線として見えてくることがある。このとき、私たちの意識からは「ろ」という文字はすっかり消え去っていて、インクのしみとしての文字そのものの姿だけが生々しく残っている。

あるいは、洗面台の鏡で自分の顔を長時間眺めてみるのもよいだろう。しばらくすると、「私の顔」とは思えなくなってきて、気づけば目や鼻、小さな傷やシミの形に至るまで、何とも形容し難い奇妙な物体が目の前にあるはずだ。

この感覚を経験して以来、彼は次のように自覚した。

世界もそこで生きる人間もすべて根本的に無意味で無目的であり、単なる偶然の産物に過ぎないのだと。

そして彼は自分自身すらも「意味も目的もなくただ存在するモノ」として嫌悪感を抱き始める。

(ムンクの「思春期」。影は実存の不安を表し、少女の目は実存を見る眼であるという解釈がある。ちなみに、「ムンクの叫び 生命のフリーズ」も現代における実存的な不安と絶望を象徴的に描いた世界で最も有名な絵画の1つとされる。)

一方で、世間の人びとは、「意味」や「目的」といったヴェールを確固たるものと思い込み、その裏にある「存在そのもの」から目を逸らして生きていた。とりわけ社会のエリートたちは、自分たちのことを予(あらかじ)め明確で崇高な存在理由を与えられてこの世に生を受けたかのように振舞っており、ロカンタンはそんな彼らを「愚かにも思い上がった下種ども」と痛烈に非難し、嫌悪感を露わにした。

世間の人々が生きる「意味や目的に束縛されながらも必然で安定した世界」、そしてロカンタンが見た「意味や目的から解放されながらも偶然で不安定な世界」。そのどちらも受け入れることのできない彼は、次第に生きることそのものに不安を覚えるようになっていく。

そんなロカンタンであったが、レコードを聴いている時だけはいつもの吐き気がなくなることに気づいた。彼はその理由を、音楽の世界が必然的であるからだ、と考えた。レコードの上では、全ての音階やリズムが規定されていて、始まりから終わりまですべてが必然的に流れていく。ロカンタンは音楽を聴くことでその必然的な世界に没入し、偶然性の不安から解放されたのである。


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さらに彼は、自らが作品を創り出すことで、必然な世界を生み出しつつ必然に束縛されない自由な生き方ができることに気づく。最後に、ロカンタンの場合は小説家を自らの生きる道として選び、小説「嘔吐」は幕を閉じる。

「意味や目的に束縛された世界」と「意味や目的から解放された世界」。ロカンタンは相反するこれら2つの世界を見たことで、これらがもつ肯定的側面と否定的側面を知った。そして、2つの世界の狭間で苦悩しながらも自らの生き方を模索し続けた。このことが、芸術という創造的で新しい生き方を彼が確立できた理由であると思う。