ブッダはサーキャ族の王子として生まれた。

 

地方豪族サーキャ族


(出典:成長と出家:カピラヴァストゥ http://mujintou.net/dharma/bukkyo/piprahwa.htm

地方豪族サーキャ族は、ヒマラヤ山脈の南、現在のネパール南部からインド国境一帯のタライ盆地に住む地方豪族であった。
ここはガンジス川の支流が流れる肥沃な土地だった。王の名に多く「飯」の意味の語が付くことから、稲作がおこなわれていたと考えられている。
東に隣接したコーリヤ族とは姻戚関係だったが、西の強国コーサラ国には従属した、半独立国だった。

また、サーキャ族はカピラヴァットゥを首都としていた。
図では詳細に表せていないが、カピラヴァットゥの場所については大きく2つの説に絞られている。
ひとつは、ネパール領のティラウラコット、もうひとつはインド領のピプラーワーである。

ティラウラコットは、ブッダが生まれたルンビニーの約20キロほど北西にいった距離にあり、城郭遺跡が発見されている。
また、周辺にも仏教遺跡が散在しており、5世紀の法顕や7世紀の玄奘など、この場所を訪れた僧侶の記録に合致する部分も多い。

一方、ピプラーワーは、ルンビニーの南西にあり、「サーキャ族のブッダ」と銘文が刻まれた仏舎利容器や、「カピラヴァットゥ」と書かれた印章やポットの蓋などが発掘されている。

一応、ピプラーワー説が有力らしいが、研修者の主張は平行線を辿っており、「ブッダはネパール人かインド人か」という問題もあり、決定的な論証が必要とされる。(ちなみにわたしは割とどうでもいい。)

また、サーキャ族の人種や使っていた言語については何もわかっていないとされる。仏伝には、古代インド・アーリア人の聖典「ヴェーダ」の英雄の後裔と記されていることからアーリア人ともいわれるが、黄色人種であったという説もある。
また、彼らはバラモン教とその権威を無視したため、バラモンには軽蔑されたという説もあるそうだ。

ブッダの家族


(出典:仏教を知る(釈迦の誕生)https://blog.goo.ne.jp/taitouku19/e/cbbd2c29ca737ca2490bf1f89c4ce1f3
ブッダの祖父、師子頬王には、4人の息子と4人の娘がいた。その長男・スッドーダナ(浄飯王)は、同族のいとこマーヤー(摩耶夫人)と結婚し、のちにブッダとなるシッダッタが生まれた。サーキャ族は三等親の近親結婚の習慣を持ち、シッダッタの妻となりラーフラ(羅喉羅)を産んだヤソーダラー (耶輸陀羅)も、彼のいとこだった。

 

父:スッドーダナ(浄飯王)

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ブッダ・ファーザー。妻マーヤーを娶り、ブッダを生んだとされる。ブッダが出家する際、反対した。しかし、ブッダがついに出家してしまうと、五比丘という五人のボディーガードを遣わせる。(ちなみにこの5人は後にブッダの最初の弟子になる。)
ブッダが悟りを開いた後、初めて帰城したときに実城(実家)で行乞をした。スッドーダナ王は、「我が子よ、なぜに我を恥ずかしめるのだ」と嘆いた。
しかし、最終的には城の人たちがブッダの説教を聞いて出家したいと言い出し、跡取りである孫のラーフラまで出家してしまう事態になったので、「頼むから今後は父母の許可なく出家するのはやめるように制度を設けてくれ」とお願いした。ブッダはこの父の願いを受け入れた。
しかし、王自身も様々な説法を受け、王の臨終の際にもブッダはそのすぐそばにいて、白い大きな傘の下で静かに寝て応果を得たという。
一説には、ブッダが悟りを開いた5年後に亡くなったとされる。
これが本当の親孝行か…。

 

母:マーヤー(摩耶夫人)

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ブッダのママ。ブッダを産み、同族のデーヴァダハ城からスッドーダナ王(いとこ)に嫁いだ。ブッダを産んだすぐ7日後に亡くなってしまったとされる。
いくつかの仏典(「摩訶摩耶経』や「華厳経」など)にしばしば登場する。その中の「摩訶摩耶経」には、ブッダが悟りを得て後、忉利天の天上に上って母マーヤーに、「ついに悟ったよ。」と報告したとされる説話がある。

 

養母:マハー・パジャーパティー(摩訶波闍波提)

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マーヤーの妹。姉の死後、スッドーダナ王(いとこ)に嫁いだ。ブッダを育てることになる。
ブッダが悟りを開いた後にスッドーダナ王が亡くなると、サーキャ族の出家したい女性たちを取りまとめ、ブッダに何度もお願いし最初の比丘尼(びくに、女性の内弟子)となった。
彼女は既に年老いていたが、修行に励んで阿羅漢果を得て、多くの比丘尼(男性と女性の出家者)から信頼された。(この境地に至ると、迷いの世界から解き放たれると言われる。仏との違いは仏が今世に生まれる前から多大な修行を経て悟ったのに対し、阿羅漢は今世の修行で悟ったものという上座部や部派の仏教解釈による。)
ブッダの入滅する3ヶ月前に亡くなったとされる。

なお彼女は、喬答弥(きょうどんみ、ゴータミー)とも呼ばれる。釈迦族の女性はすべて同じくゴータミーと呼ばれる。
(ちなみに先ほどのマーヤーも、近年では、母を意味するmātāの俗語形であって本名ではない、という学説がある。)

 

妻:ヤソーダラー (耶輸陀羅)

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ブッダの妻。彼女は若くして結婚したあと、ブッダの出家直前に(直後という説もある。)息子ラーフラを出産する。
後にブッダが悟りを開いてカピラ城に戻ってきたときに、彼女はラーフラを伴いブッダに会いにいき、「財宝をゆずってください。」と息子に言わせたという。
ブッダはそのようにすればいいと認めた。ちなみに、そのあとラーフラはニグローダ樹苑に向かうブッダ一同についてゆき、年少の見習い僧となった。

また、一説(根本説一切有部毘奈耶破僧事)では、ブッダが帰城したとき、ヤソーダラーは他の女衆と一緒に身飾りを香をつけて夫を出迎え、教えを聞いたがひとりだけ全然わからなかった(預流果(聖者の流れに入った位)の境地を得なかった。)とされる。

でも、さらにその後、彼女も叔母(ブッダの養母)のマハー・パジャーパティーや500人の女性たちと一緒に出家させて欲しいと、ブッダに3回も懇願したが、なかなか受け付けてもらえず大声で泣いて城に帰った。
ブッダ一同は実城(実家)を離れ、ヴァイシャリー城の近くにある大林精舎にいったが、諦めきれなかった彼女たちは髪の毛を剃り、黄衣を着て跡を追った。しかし、ブッダのいる講堂の前で足を腫らし、涙やホコリまみれになって、また大声で泣いてしまった。その時、それを目撃したアーナンダーが驚いて理由を訊ね、ブッダに女性たちの出家を認めるように説得した。
アーナンダーの説得もあり、ブッダはようやく彼女らの出家を認めた。
出家後、ヤソーダラーは自分を反省することに努め、女性の僧侶(尼僧)の第一人者になったと言われる。

 

息子:ラーフラ(羅睺羅)

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ラーフラはブッダとヤソーダラーの間に生まれたブッダのジュニア。しかし、ブッダの出家の前後だったこともあり、いきなり「修行の邪魔」と命名されてしまう。(ブッダが出家を志したとき、妻が懐妊したことを聞き、「我が破らねばならぬ障碍(ラーフラ)ができた」と言ったことから。)
ちなみに、後にブッダの弟子になり、シャリープトラ(ブッダのNo.1弟子)について学び、修行した。
教団ではブッダの実子として特別扱いを受けることもあったが、ラーフラは分を弁えて、人一倍ルール(制戒)を守り、周りから慕われていたという。
そのように、彼は不言実行をもって密行(密行とは緻密、厳密、手抜かりのないこと。)をまっとうし、のちにブッダの十大弟子となり密行第一と称せられた。

余談?だが、彼の命名については諸説あり、別説ではラーフラとは竜の頭の意味である。
古代インド語で、「ラーフ」はナーガ(龍)の頭、ちなみにサーキャ族のトーテム(自然崇拝の象徴)はナーガ(龍)であった。
古来インドでは、一族の跡継ぎがいなければ出家できないとされていたので、ブッダが歓喜して息子を「ラーフラ(ナーガの頭)」と名付けたという説である。
また、同説では、ブッダの父であるスッドーダナもこの命名に喜んでいる記述があるとされ、孫が障碍という意味では不自然だという。

ここの史実上の見解には関係ないが、このように息子「ラーフラ」の名前ひとつをとっても、人によって喜んだり悲しんだりと、ラーフラという名前に画一的な意味が定まらず、その関係性によって様々な見方が成り立っているこの記事の内容は、なんとなく後に説明する縁起や空のコンセプトっぽいなぁとわたしは感じたりするが、それはまた別のお話にしよう。

 

「Ānanda」の画像検索結果
いとこ:アーナンダ(阿難陀)
イケメンの優男。多聞第一。