二諦説(satya-dvaya, サティヤ・ドヴァヤ)とは、仏教における真実を俗諦真諦の2つに分ける考え方で、龍樹の『中論』において明確に示されました。

まず、俗諦とは言葉によって表現された真実のことで伝統仏教における「四諦」や「八正道」、「十二支縁起」などが相当します。

真諦とは、言葉で表現できない究極的な真実のことで、第一義諦や勝義諦などとも呼ばれます。『維摩経』では、主人公の維摩詰が沈黙によって真実を示し場面がありますが、ここで維摩詰によって示された真実こそが真諦であるといえます。

龍樹は、この2つの真実を理解しなければブッダの深淵な教えは理解できないと主張します。

ブッダの教えを一言で言えば、「物事に本質的区別はない」ということを観察・内省し、区別に基づく両極端の考え方を離れる(=中道を歩む)というものです。

しかしながら、言葉によって示された教えというのは、必ず何らかの区別を生じます。例えば、「執着から離れよ」という教えは、「執着」と「無執着」という区別を聞き手の意識中に形成し、「執着から離れて無執着に近づこう」という新しい執着を生み出します。教え本来の意図であった「執着から離れよ」が本末転倒な結果を引き起こしてしまうというわけです。

では、言葉によって教えを語るのをやめてただ沈黙すれば良いのかといえば、そんなことはありません。なぜなら、それでは教えの伝達自体が不可能になってしまうからです。

つまり、仏教というのは「言葉で説いても目的が達成できず、言葉で説かなくても目的が達成できない」という究極のジレンマを本来的に抱えた教えだといえます。

仏教のこのジレンマを示すエピソードとして「梵天勧請」があります。ブッダは菩提樹下で悟りを開いた後、この教えを説くことをためらったと伝えられています。

パーリ仏典では、ブッダが悟りを開いた直後にこう語る場面があります。

”貪と瞋に支配された人々が、この法をよく悟ることは難しい。これは流れに逆らうもので、見がたく甚深であるものだから”(パーリ仏典, 26 Ariyapariyesana Sutta)

ここで言われている「見がたく甚深」というのは、「言語による表現が不可能であること」を暗に示していると考えてよいでしょう。

しかし、最終的にブッダは、梵天の懇願により教えを説くことを決心します。それは、「言葉にできないことを言葉で説く」という究極の挑戦の始まりでもあったのです。

最後にナーガールジュナの『中論』から二諦説が説かれている部分を引用します。

”諸仏による法の説示は、二種の真理(二諦)に依っている。世間世俗の真理と、勝義からの真理とである。これら二種の真理の区別を知らない人々は、深遠な仏説における真実を知らない。言語習慣に依らなければ、勝義は示されない。勝義に至らずに涅槃は得られない。”