一般的に、仏教は前世や来世に関しては「無記(言及しない)」の立場であり、霊魂の実在も想定しません。

しかし、仏典には「仏は不滅である」とか「仏の寿命は永遠である」などの永遠の生命を示す表現が多く見られます。一体、仏教はどのようにして霊魂の存在を想定せずに永遠の生命を説明するのでしょうか?

これを理解するために、まず仏教の基本的な考え方である『縁起』を理解する必要があります。

縁起とは、「縁りて起こる」という意味で、「全ての物事は互いに影響しあうことで存在している」という考え方です。

例として、私という存在について考えてみたいと思います。例えば、私は今ここで生きてパソコンの前に座っていますが、私は私だけで存在しているわけではありません。まず、私を育てた両親がいて、その両親を育てた両親がいて、そのまた両親がいて……と、遥か昔の先祖からの影響(=縁)によって存在しています。また、今日まで私が関わった友人・知人などの人々からも何らかの影響を受けてます。もし、彼らのうち誰か一人でも欠けていたら、私は(少なくとも今の状態では)存在していません。それから、私を含め、人間は食事からエネルギーを摂取しないと生きられません。ですから、その食事を作った人、その材料となった動物、その動物を育てた人、その動物が食べた植物、植物を育てた太陽光……と辿っていくと、宇宙の中の無数の影響によって私が存在しているということが分かります。また、同時に、私も他の人やものに影響を与えながら生きています。

このようにして考えると、この世界には何一つとして独立して存在する物はないということが分かります。太陽も地球も人も草木もすべて、時間的にも空間的にも無限の関係性でつながり合って存在しているのです。

ちなみに、今話題の小説「君たちはどう生きるか」では、主人公のコペル君がこれとまったく同じ発見をします。原文は少し長いので、doodling氏のブログから小説の該当部分の要約を引用します。

【叔父さん、聞いてください。僕はすごい発見をしたのです。子供のころに僕が飲んでいた、粉ミルクの缶。いまでもお菓子を入れるのに使っているあの缶のことを、こないだ夜中に目がさめたとき考えました。あの粉ミルクは、オーストラリアで作られたと缶には書いてあります。ということは、オーストラリアの牛から僕までの間には、牛の世話をして乳をしぼる人→工場に運ぶ人→粉ミルクにする人→缶に詰める人→鉄道に運ぶ人→汽車の人→港の人→船の人、さらには日本についてから荷おろしをする人→運ぶ人→売る人、広告する人、小売りの薬屋の人→薬屋の小僧、というふうに、長い長いリレーが続いていることになるでしょう。つまり、工場や汽車を作る人まで考えれば、何千何万という顔を見たこともない人たちが、粉ミルクの缶を通して、僕につながっているのにちがいありません。そして、これは粉ミルクだけの話ではなく、家にある時計も電灯も机も何もかも同じであって、どの品物のうしろにも、たくさんの人間がぞろぞろつながっているのです。だから、僕の考えでは、人間分子は、みんな、見たことも会ったこともない大勢の人と、知らないうちに、網のようにつながっているのだと思います。それで、僕はこれを「人間分子の関係、網目の法則」ということにしました。僕は、いま、この発見をいろいろなものに応用して、まちがっていないことを、実地にためしています。】

http://outofthekitchen.blog47.fc2.com/blog-entry-532.html

(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(1937) – キッチンに入るな)

このように、仏教は万物の存在を他との関係性によって説明します。それに対し、ヒンドゥー教(=バラモン教)の世界観では、万物は宇宙の根源であるブラフマン(梵)から生成すると考えます。また、万物はブラフマンによって支配(コントロール)されることで存在していると考えます。

仏教はこうしたブラフマン(宇宙の根源)の存在を認めません(有無が判別できないものについては仏教はすべて「無記」)。あくまで、確認できる物事のみを対象とし、それらが縁起(相互依存関係)によって存在していることを観ずるというのが仏教の考え方です。

さて、最初の疑問である「仏教は永遠の生命をどう考えるか」の答えも見えてきたと思います。すなわち、一人の人間の影響が時間的にも空間的にも途切れることなく連鎖して他のあらゆる物事を支えている、というのがその答えです。これは生まれてくる前も生きている間も死んだ後も同じです。いつでもどこでも「今ここ」との関係が途切れることはないのです。

仏(目覚めた人)はこのように自己と世界を見ているのです。仏が「不滅」であり「寿命が永遠」であるというのは、不老不死だとか霊魂が永続するとかではありません。仏は「生きている状態」と「死んでいる状態」の区別していない(差異に囚われていない)ということなのです。

鎌倉仏教の祖師の一人である日蓮は「生死を離れる」という表現を頻繁に使いますが(守護国家論、開目抄、善無畏三蔵抄など)、これは悟った結果、「生」「死」の区別に囚われなくなることを意味しています。仏教は、縁起の考え方を用いることで、「生と死」「善と悪」「清と汚」のような相反する要素の対立を解消することができます。そうすることで、対立する要素のうちのどちらか一方へ執着することを防ぐのです。また、これを実践的に言うと「中道」ということになります。