主人公である維摩は在家の仏教信者で、出家した僧侶ではない。
普通に結婚して、家庭生活を営み、家に住している。しかし、何事にも執着するところがない。

 

維摩の病気

Das Sutra Vimalakirti (Das Sutra uber die Erlosung). Nach einem ...

そんな維摩がある日病いにかかり、床に臥しているという知らせがはいった。
人徳のあった維摩のもとへ、何千人という人々が見舞いにきた。

これはまだ維摩経の序盤の方だが、ここから維摩は人々を真実に近づけるためのアプローチ(方便)として、自身の病気を利用する。

 

「私の身体は様々な原因が関わりあって、一時的に成り立っているだけだ(縁起)。唯一絶対のものやただひとつで存在するもの、永遠に変化しないものなど、この世界には何ひとつ無い(無常)。常に変わり続けることを受け入れよう。みんなも、移ろいゆくまぼろし(苦しみの原因)に囚われてしまってはいけないよ。(めっちゃ趣意)」

 

維摩は病気に倒れる自分のありのまま姿を人々にみせて、苦しみを恐れる人々を真理の方へ導いていったのだ。

そんなとき、遠くにいたブッダは弟子たちに維摩の見舞いに行くように指示する。
しかし、どの弟子も維摩の見舞いに行くことを嫌がりだした。

なぜかというと、どの弟子たちも、座禅や説教、病気、道場、法施などの様々なテーマで、在家の維摩からの強烈な質問に答えられなくなり、思いっきりやりこめられた経験があった。
またやり込められるのではと、維摩に会いに行くことをビビっていたのだ。

その後、ブッダは菩薩たちに見舞いに行くように言う。
結局、半分いやいやな弟子と菩薩たちは維摩のもとを訪ねることになる。

 

菩薩の訪問と不二の法門

維摩は自分の見舞いに集まってきてた菩薩たちに、「不二の法門に入るとは、どういうことなのか説明していただきたい」と尋ねる。
(省略したが、弟子たちはすでに妖術(神通力)でボコられてる。笑)
(ちなみに上の写真は、聖と俗を区別する舎利弗にはとれない花びらを舞い落とす百花仙子)

 

では、ここで先に「不二」について説明しておこう。

不二とは、「(分かれている二つのものは、)二つではない。(どちらも同じ一つのもの。)」という意味であり、いわゆる「無分別」(ことばによる認識、分別を越えること、ほぼ空と同義。)を表すものである。

これは、二つの内、どちらかに優劣をつけて執着することをしない仏教の実践にもつながっていく。

 

話を戻そう。
維摩に質問された32人の菩薩たちは、次々と自分の意見を述べる。

ある者は「生と死を超えることが不二である。」と言い、ある者は「汚れと浄めのないことが不二である。」と答える。
また、善悪を超えること、世間的なもの(俗)と出世間的なもの(聖)との区別のないこと、輪廻と涅槃とが一つであること、認識のないことなどが不二の法門にはいることである、というようにさまざまな答えが返ってくる。

最後の32番目に、知恵を掌る「文殊菩薩」が登場する。

HearThis on Twitter: "This is the famous mural depict of Manjushri ...

そこで文殊菩薩は“ほぼ”満点の回答をする。

「私の考えでは、すべての存在や現象において、言葉も思考も認識も問いも答えからも、すべてから離れること。それが不二の法門に入ることだと考えます。」

これ以上の回答はないだろうとばかりに、文殊は維摩に向って言う。

「私たちはそれぞれ自分の考えを述べました。あなたもまた、不二の法門について、何か語っていただきたいのですが。」

すると、維摩は、なんと口をつぐんで一言も言わなかった。

しばらく、沈黙が流れた…。

Portrait of Vimalakirti Posters and Prints | Posterlounge.com

すると突然、文殊菩薩が維摩を称えてこういった。

「大いに結構です!良家の子よ!これこそ菩薩が不二にはいることであって、そこには文字もなく、言葉もなく、心がはたらくこともないのだ!」

この最後の文殊の回答と、維摩の『雷の如き一黙』がこの維摩経の最大のクライマックスである。

 

沈黙の理由

ではなぜ、維摩は黙してなにも語らなかったのであろうか?

まずその理由のひとつは、文殊がことばの限界をことばで語っていたのを、維摩は沈黙で示したからである。

つまり、文殊がことばで空(不二)を語りだすと、みんなの思考の中に、逆に「すべては空(と空以外)なんだ!という二項対立」ができてしまいかねない。

そうなってしまうと、今度は空だけに執着してしまう仏道修行者たちがでてくる可能性がある。(というか出てくる。笑)

維摩はそのことばの空すらも、更に沈黙によって空してみせたのである。空自体を空することが空の最終形態なのだ。

だがしかし、「維摩の沈黙」を「不二の言説」に対するものと捉えたら、 諸菩薩と同じく二を立てる非を犯すことになる。(ことばの空vs沈黙の空みたいになる。)

つまり、無言が一番!とことばで言うことと、実際に無言になることの二項対立である。(←ややこしいな。笑)

なので、結局なんにも言わないのがいいのかな、というと、そうではない。
最終的に、維摩は真理を知って沈黙しろ。と言ってるわけではないのである。それは沈黙の空に執着してしまっているのだ。

 

維摩経の本当の不二

これは、維摩経全体の構成からわかるのだが、この経典で示される「本当の不二」とは、語ることと黙っていることを更に超えたものである。

維摩経の場合、それは真理を知りつつ、他人を自分のことのように憂い(自他不二)、人を救うためにあえて語っていくという仏の慈悲の実践として示される。

苦しみの原因は執着にある。
執着する原因は、執着する対象が実在すると考えてしまうことによる。
空(不二の法門)では、皆が執着してしまうすべての対象が、ただ仮に成り立っているだけの概念によるものだということを明らかにするのだ。

もし、空が理解できたなら、すべての執着から離れ、執着しないことからも離れることがでれば、スッキリしたありのままの自分を見出すだろう。また、この世界の(思議の及ばない)不思議さに驚くに違いない。

そして、周りを見まわして気が付くのは、自分の家族や友人を始めとする、いまだ苦しんでいる人達の存在だ。

the hands ] | Wat Rong Khun - Chiang Rai, Thailand. | Riccardo ...

菩薩や維摩は、この生老病死で苦しんでいる衆生の気持ちになって、自分もまた悩みや苦しみに寄り添い、ことばや振る舞いを通して、自分の見ている世界をシェアしようとする。

迷える他者と敢えて同じスタートラインに立ち、あらゆることばの世界から、同じくことばや振る舞いによって空の世界へと導き、言語を超越した無分別の世界をともに体験する。

そこはあらゆる悩みを超越した、静かで輝かしい世界だ。(←言語を超越した世界を、あえて言語で表現したもの!)

しかし、本当にあらゆる執着から離れてしまえば、例えば筆者の場合、ただただありのままでいるだけである。
空に執着して、修行僧のように出家することもない。

しかし、維摩経で説明なしに示されているのは、苦しむ衆生を救うという大乗仏教のアティチュードである。

The Dharma Door of Nonduality - Tricycle: The Buddhist Review

維摩は、自分の病気の本当の原因について、「自分以外の人々が苦しみ迷っているから、自分は病になったんだよ。」と言っている。

そんなところに、大乗経典である維摩経の本当の想いが込められていたと筆者は考える。