自由な都会の成立と六師外道


(大足石刻の壁画:左から、プーラナ、ゴーサーラ、サンジャヤ、アジタ、パクダ)

さてさて、前回の続きで、インドのさらに東に進出したアーリア人は、より安定した生活を送った。
混血が進み、肥沃な土地から多くの農産物がとれ、商業が盛んになり、多数の小都市ができた。
君主を持たない共和制を敷く都市もあった。

そして、それらはやがて4つの国(コーサラ、マガダ、アヴァンティ、ヴァンサ)に併合されていった
大国となった王様たちは大きな力を持つようになった。
また、貨幣経済が進展すると莫大なお金を貯め込んだ商人たちは、組合を形成して経済的実権を握った。

『たとい奴隷であろうとも、財宝・米穀・金銀に富んでいるならば、王族もバラモンも庶民たちも、かれより先に起き、後に寝て、進んでかれの用事をつとめ、かれに媚び、快いことばを語るであろう。』(マッジマ・ニカーヤ. vol. II, p. 85)

もはや、昔の伝統は崩壊しつつあった。
また、物質的生活が豊かになるにつれて、享楽にふけり、道徳を重視しない人もあらわれはじめた
もう、バラモンは以前ほどの権威を持っていなかったのだ。

そこで、自分たちの幸福をバラモン(他者)から与えられるのではなく、自分で努力して獲得しようとする『沙門(努力する人)』があらわれた。そして、新しい時代の動きに応じて、自由思想家たちがあらわれたのだ。

その代表が『六師外道』と呼ばれる人たちである。(ちなみに外道とは仏教以外の教えという仏教用語だ。)

さっそく1人目からみていこう。

 

プーラナ:道徳否定論

プーラナ・カッサパは奴隷出身だった。その主人の牛舎で生まれ、後に主人のもとから逃れ、そのとき衣を取られて以来、ほぼ裸でいたといわれている。

彼は、善悪の区別は人間がものごとの一面だけをみて判断したにすぎないとした。
※ちなみに仏教では、この考えを業報観念の否定として「邪見」と見なした。

彼によると、生き物や人間を切断し、苦しめ、悲しませ、生命を奪ったり、その他の悪行(家宅侵入・掠奪・強盗・追剥・姦通・虚言など)を行ったとしても、少しも悪くないという。

また反対に、どれだけ善いこと(バラモンの祭祀、施し、克己、感官の制御、真実を語るなど)をしても、善業の生ずることはなく、また必ずしも善い結果は生まれない。

このように道徳的因果律は存在しないから、善業善果、悪業悪果はなく、不生不滅で永遠に存在する霊魂は人のいかなる行為によっても影響を受けないというのだ。(非業論:アキリヤヴァーダ

とまぁ、これが仏教側からの大体の通説だが、流石にそんな無責任な行動を引き起こすだけの教えではないと思う。
ポイントは彼の出生が奴隷ということだ。(ちなみにカッサパはバラモンの姓なので、親の片方が奴隷だと思う。)

当時、奴隷の人たちは生き物を殺す仕事をする方々も多かった。なので、伝統的な輪廻・業の説に従う限り、その人たちは悪い果報を受けることを免れない

一応、彼はあらゆるものごとや行為を「平等」に見ることによって、罪福へのこだわりから生まれる苦しみから、弱い立場の人を救いたかったのではないかと思う。

※古代インドの叙事詩「バガヴァッド・ギーター」の「苦楽、得失、勝敗を平等のものと見て、戦いに専心せよ。そうすれば罪悪を得ることはない。」という平等の教えと同じと考えられる。

 

アジタ:唯物論・快楽主義

アジタ・ケーサカンバリンは当時の一部の苦行者の風習に従って、毛髪でつくられた衣をまとっていたらしい。
(ケーサカンバリンは「髪の毛で作った衣を着る者」の意味。だいぶキテレツだ。)

彼によると、世界には地・水・火・風の4元素のみが実在しているという。またそれらは独立して永遠に存在するものであるとした。
さらに、これらの元素が存在し活動する場所として「虚空」の存在も認めていた。

もちろん、人間もこれらの4元素から構成されている。人間が死ぬと人間を構成していた地の要素は外界の地の集合に帰り、水は水に、火は火に、風は風に帰っていき、もろもろの機官の能力は虚空のなかに帰っていくと説いた。

人間そのものは死とともに無となるのであって、身体のほかに死後に独立に存在する霊魂なるものは存在しない
人々は火葬場に至るまで歎辞を説くけれども、愚者賢者も死んだらおしまいだ。現世来世も存在せず、善悪の果報もない。

だから、宗教的な行為は完全に無意味で、この世での生を最大限に謳歌して楽しみ、そこから幸福を得るべきだという。

しかし、アジタは『楽しみには悲しみが必ず伴う』とも説いた。それを恐れて喜びから退いてはいけないとも言った。時には訪れる悲しみも喜んで受け入れよと主張していたそうだ。

この点を踏まえると、アジタの教団は、古代ギリシアにおけるエピクロス派の快楽主義のような、素朴な人生の喜びをともに分かち合う共同体のようなものであったという説もある。

 

パクダ:七要素説

Master Asita
パクダ・カッチャーヤナは、世界は7つの要素(地・水・火・風+苦・楽・生命(あるいは霊魂))から構成されていると説いた。

7つの要素はそもそも実在していたもので、不変不動で、互いに対して何の影響もあたえず、絶対的で永続的なものであるという。

たとえ、剣で人の頭を切っても、剣はただ7つの要素の間隙を通り抜けるだけである。殺すも殺されるもない。同様に学ぶ人や教える人などもなく、行為に善悪はないとする。

これもプーラナの思想のように、道徳破壊の一面だけが注目されかねないが、人間の本質は霊魂にあり、その霊魂は不変なものなので、殺すことも汚すことも害することもできないという思想である。

※この教えも、バガヴァッド・ギーターの「彼は断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。彼は常住であり、遍在し、堅固であり、不動であり、永遠である。」という思想と同じ。

 

ゴーサーラ:宿命論

Makkhali GOSALA

マッカリ・ゴーサーラは、アージーヴィカ教の代表者である。ちなみにプーラナとパクダもアージーヴィカ教である。

アージーヴィカは、「生活法に関する規定を厳密に遵奉する者」の意味。
しかし、他の宗教からだいぶ叩かれていて、「生活を得る手段として修行する者」の意味に用いられ、漢訳仏典では「邪命外道」と訳されている。

ゴーサーラの思想は『宿命論』だ。その説によれば、一切のものは宇宙を支配する原理である宿命(ニヤティ)によって定められている

輪廻はすでに決まっており、まるで転がされた糸玉が解け終るまで転がっていき、やがてすっかり解け終わったら解脱する。それまでは賢者も愚者も共にグルグル輪廻しつづけるという。

彼の思想には『無因論』も含まれている。
行為には、運命を変える力(原因)がないのだ。
なので、行為に善悪はなく、その報いもないと考える。当時、支配的な思想であった「業」の思想をやはり否定した

※ゴーサーラを決定論者とする人がいるが、決定論の普通の意味は、「すべての現象が因果関係によって決定されているとする説」なので注意が必要だ。

 

運命論について、マハーバーラタという文献の『マンキ物語』を紹介しよう。

File:The camel accidentally kill Bullocks of sage manki.jpg ...

主人公のマンキは、財産を得ようとなんども努力するが、すべて失敗した。わずかに残った財産をはたいて二匹の仔牛を買うが、それを目の前で仔牛を運ぶラクダが暴れて殺されてしまい、絶望する。(上図)

誰かの責任でもないし、もうどうしようもない。人間の意志では及ばない何かが運命を決定している。その絶望の淵でマンキは人智を超えた宿命論を悟る

つまり、この世でやすらぎを得ようと思うならば、完全に無関心になるべきなのだ。利益を得ることの望みを持たないものは、やすらかになる、と。

 

また、このように人間の無力さを強調するゴーサーラは、幸不幸を決定する宿命を説く一方で、苦行を義務づけた

全部決まってるのに、苦行してなんの意味があるんだ?と思われるに違いないが、簡単にいうと、輪廻の終わりに近づいていることを自覚して安心するためである。

アージーヴィカにとって解脱とは、心と言葉と身体によるすべての行為が消滅することだった。
6ヶ月にわたって飲食を減らしていき、最後は何も飲食せず死(最終解脱)に至るスッダーパーナヤ(清浄なものを飲む)と呼ばれる最終段階の苦行において、やがて転がされた糸玉がすっかり解け終ると考えていたからである。

また、彼は全ての生きものを構成している要素として、「地・水・火・風・虚空・霊魂」、「得・失・苦・楽・生・死」の12種を考えた。

霊魂は物体のように、 動物や植物などにも宿るという。一切の生きとし生けるものには支配力はなく、意志の力もなく、ただ運命に支配されて、いずれかの状態において苦楽を享受するのである。

後半の6種(得〜死)は、生き物や物体に現象作用を引き起こす原理を実体視したものである。

 

このような教えは人々に大きな影響を与えた。また、仏教側からもライバル視されていた可能性がある。
(うろ覚えだが、仏教団体では、ゴーサーラの教えを最も下等で最も卑しい教えと批判していたらしい。この批判は仏教側の脅威の表れとも取れる。)

ではなぜ、アージーヴィカ教が人気を博したのだろうか。それは、運命に支配されながらも、全ての人間が最後には平等に解脱できると説いたからだと思う。

宿命論は、バラモン教の業思想に悩んでいた狩人や屠殺者だけでなく、戦争で人を殺す軍人や祭式で動物を犠牲にするバラモン、さらには人間の生が他の生命を食べて成り立つことを自覚する人達を安心させる効果があったのだと思う。

また、あらゆる生命や、(善悪などの)あらゆる行為・価値をフラットにみる教えに、励まされる人がいたんだろう。

川や海がゴツゴツした岩を削って、角が取れ、やがて砂つぶになって消えていくように、すべての人が最後には必ず解脱する。

その教えは、苦しい境遇にいる人達の支えとなり、どうしようもない現災に耐えて希望を与える思想として説かれていたのだろう。

 

サンジャヤ:不可知論

サンジャヤ・ベーラッティプッタは、答えのでない抽象的な話(形而上学的な議論)に対し、答えを出すことを避ける不可知論者だった。

※不可知論:真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする立場

彼は、あの世の存在、善悪の報い、死後の存在などについても、判断中止の態度を示し、明確な答えを避けた。

また、彼の論法は『うなぎ論法』とも呼ばれ、曖昧な答弁を繰り広げた。

うえのマンガの通りだが、あの世があるのかという質問に対し、彼はこう答えた。

「もし、あなたがあの世はあるかとたずね、
自分があの世は、あると考えたなら、あの世は、あると答えるであろう。
しかし、私はそうしない。
そうとは考えない。
それとは異なるとも考えない。
そうではないとも考えない。
そうではないのではないとも考えない。」

この論法は一見よくわからないが、人生に役立たない形而上学的な問いの探究を回避したり、他の主張をする人と白黒をはっきりさせないで共存するという意味では役に立つ

この白黒つけない立場は、仏教の『無記』の考え方に影響を及ぼしたと考えられる。

また、通説ではブッダの二大弟子サーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目連)は、元々サンジャヤの弟子であったと伝えられていたが、現在では別人という説がある。

 

マハーヴィーラ:原始ジャイナ教

マハーヴィーラは、偉大なる英雄というあだ名だ。本名はヴァルダマーナ。
彼はジャイナ教の祖師となる。今回はポイントとなる思想に注目したい。

まず、マハーヴィーラは相対主義者と言われる。
彼は、事物に関しては一方的な判断を下してはいけないと考えた。ものごとはいろんな立場から多面的に考察するべきである、と。もし何らかの判断を下そうとするならば、「ある点から見ると」という制限を附して述べなければならないとした。

彼は、このような批判的・反省的立場に立っていたから、ヴェーダ聖典の絶対的権威を否定し、バラモンたちが日常行なっている祭祀は無意義・無価値であると主張した。

また、祭祀において獣を殺すのは罪をもたらすといって排斥し、階級制度にも反対した。そのようにして、彼なりに合理主義的な見地に立って、この世界について考え始めた。

まず、マハーヴィーラは世界を2つに分けた。それは霊魂と非霊魂だ。
霊魂は、地・ 水・火・風・動物・植物の6種類。これらは物質の内部に想定される生命力を実体的に考えたものである。
非霊魂は、運動の条件と静止の条件と虚空と物質の4種類。また、この中に時間をプラスする場合もある。

また、これらによって宇宙は永遠の昔から構成されていて、太初に宇宙を創造したりあるいはそれを支配している神は存在しないと考えた。

マハーヴィーラは、人間の身体が活動して、行い・言葉・思うこと(身・口・意)の三業を引き起こしてしまうと、その業によってとても小さい物質が霊魂に附着すると考えた。

その微細な物質は、霊魂を束縛し、霊魂の本性を覆ってしまう。このことを繋縛(けばく)という。

この緊縛が理由となり、霊魂は地獄・畜生・人間・天上の四迷界を輪廻し、絶えず苦しみの生存を繰り返しているという。

なので、この業に束縛された状態から脱出して永遠の寂静を得るためには、苦行によって過去の業を滅ぼして、新たな業を積むことを止めなければならない。

これを徹底的に実行することは、世俗的な在家の生活においては不可能だから、出家して修行者となり、一切の欲望を捨て、独身の修行生活を行なうことを勧めている。

そこでマハーヴィーラは、『不殺生・真実語・不盗・不淫・無所有』の五つの制戒を考え、これに「懺悔」を伴わせて、ジャイナ教の前身となるニガンタ派の教義を改革した。

ちなみに、仏教が苦行と快楽の両極端を避けたのに対し、ジャイナ教はめちゃめちゃ厳しく苦行する
特に、「不殺生」と「無所有」は超厳格だ。

不殺生の戒は、すべて生きものは苦を憎むので、殺せば必ずその憎しみが殺害者にふりかかり束縛の原因となるからとされた。

上述したように、ジャイナ教において生き物とは霊魂(地(土)・水・火・風(空気)・植物・動物など、物質の内部に想定される生命力の実体)のことを指すので、通常に生き物とされるものよりめちゃめちゃ範囲が広い。器いっぱいの水は、器いっぱいの蟻に等しいとされた。

また、無所有については、所有したいという欲求は、必ず行為を導く。行為すれば他から奪い、はたまた殺生することになる。

殺生は最大の罪で、束縛の大きな原因である。そのためすべてを捨てることが求められる。このすべてに含まれるのは、ものだけではなく、家族・親類などの人間関係、欲求などの精神的なもの、修行に不必要なものすべてを指す

※それ故、ジャイナの修行は衣服を用いない裸形が理想とされる。

このように、マハーヴィーラのハードな苦行を見習って、ひたすら試練に耐えることが重んじられた。特に断食が重視され、断食によって死ぬことが極度に称賛された
また、修行にあたっては、何ら救済者の恩寵などを期待してはならず、自己の力によるべきことを強調した。

このような超厳格な修行によって業の束縛から解き放たれ、微細な物質が霊魂から離れることを止滅といった。

その結果、罪悪や汚れを滅ぼし去って完全な知慧を得た人は、「生を望まず、死も欲せず」、「現世も来世も願うことなし」という境地に到達する。この境地を解脱・ 寂静・ニルヴァーナ(涅槃)と考えた。身体の壊滅とともに完全な解脱が完成するのだ。
(とりあえず、筆者にはできそうにない…。)

 

参考文献:
・「インド思想史(中村元)」
・「空の思想(梶山雄一)」
・「舎利弗・目連の旧師サンジャヤ(畑 昌利)」
・「「古代インドの宿命論アージーヴィカ教について(野沢正信)」
・「Six Contemporary Teachers During The Time Of The Buddha」