ウパニシャッド哲学とは

ウパニシャッド哲学は、紀元前1000年〜紀元前500年の文献『ウパニシャッド』にもとづく哲学である。

ウパニシャッドという語はもともと「近くに座る」とかいう意味で、転じて「秘密の教え」という意味になり、のちにその教えを載録した一群の文献の名称となった。

ウパニシャッドにもたくさん教えがあり、祭祀に関する説明や神話的要素も多く含んでいる。そして、思想を述べるにしても、体系的・理論的に説くのではなくて、神秘的な霊感によって得た確信を譬喩とか比較を通して伝えているものが多い

また、その思想はこれまでのヴェーダ聖典の思想と比較すると、かなり奇抜だったようだ。したがって、この新思想の多くは師から弟子、思想家などの間で秘密に伝えられ、一般人が耳にする機会はあまり無かったのである。

しかし、ウパニシャッドの思想家のなかに国の王様などもいたので、サミットなどを通して、その哲学的意義が後に認められるに至った。

 

ウパニシャッド哲学の概要

OM – The sound of silence | Anahata Yoga

前回の記事に書いたように、バラモン教はますます儀式中心になり、教義は形骸化していった

ウパニシャッドの思想家たちは形式的になってしまったバラモン教を批判し、独自に宇宙の根源について探究していった。その結果、生きている間にカルマを積み、輪廻を繰り返してしまう個の本質、アートマン(我)と、この宇宙の根源であるブラフマン(梵)を見出し、この2つが同一であると認識すること(梵我一如)こそが真理の把握であるとした。

また、この真理を理解し、苦行に励むことによって、輪廻の輪から脱出(解脱)できると考えたとされる。

しかし、前述したようにウパニシャッドの思想は雑多であり、一律に概括することはできない。が、種々の原理が雑然と並べられ、それらが最終的に同一であるとみなされていたとは言えると思う。

※梵我一如については、ブラフマンが常に大宇宙の原理とみなされていないことから、客観(ブラフマン)と主観(アートマン)の合致ではなく、自己自身と直接関連を有する主観だけが実在する(すべてがアートマン、厳密にはただひとつの実在に集約される)という確信とする説がある。(湯田豊説)

 

ブラーフマナの造物主プラジャーパティ

ちなみに、このような考え方の元になるようなものは、実はウパニシャッド以前に存在していた。


(プラジャーパティの創造行為を描写しようとする試み、1850年代の銅版画)

ウパニシャッド以前に成立したと考えられる『ブラーフマナ』には、世界創造神として、造物主プラジャーパティという根本神格を考えていた。その語義は「子孫の主」であり、あとは子孫・家畜の増殖保護の神であったが、後には創造神の地位に高められていた。

造物主の神話は多数説かれているが、それらには共通しているのは、まず造物主が世界を創造しようとする欲望を起こし、努力苦行して熱力を発する。それから種々の順序を経て一切の事物を創造したということだ。

また、ブラーフマナでは、来世における応報の観念も生まれつつあった。この世で功徳を積んだ者は、来世に福楽を享受するとされ、その為には祭祀を実行しなければならないと考えていた。

しかし、天界において再び死ぬ場合もあると考えて、再死を極度に恐れ、それを避けるため更に特別な祭祀を実行したとされる。

プラジャーパティの考えがそっくりそのままウパニシャッドに継承されている訳ではないと思うが、このような原型になるような考えは存在していたのだ。

 

シャーンディリアのブラフマン・アートマン同一説

さて、話をウパニシャッドに戻そう。(←このセリフを言えてなんだか嬉しい。)

チャーンドーギヤ・ウパニシャッドにおいて説かれるシャーンディリヤの教えは極めて重要である。その理由は、彼が梵我一如の思想を表明したこと。もうひとつは、彼が人間を意図・意思から成るものと規定したことである。

シャーンディリアは、全宇宙の本質をブラフマンと呼んだ。ブラフマンは前後、左右、上下にあるものとして捉えられている。

また、心臓の内部に存在する微細なものをプルシャ、虚空、そしてアートマンと考えていた。(プルシャ=アートマン=虚空)

アートマンとは、プルシャと虚空の性質を兼ね備えた、すべてのものを潜在的に含む微細ななにかである。

プルシャの観念は、光を形態とするもの(黄金のプルシャとも呼ばれる)、心から成るもの、息を身体とするもの、その意図が真実なるもの、といった意味で、心臓にある魂的なものとして扱われていた。

虚空は、心臓の中にあり、天空地の三界(コスモス)が含まれている。また虚空は、コスモスとして万物の生起しかつ帰滅する究極として考察されている。つまり、心臓中の虚空は空虚な空間ではなく、無限に充満したもの・充実したものであり、そのなかに一切のものが潜在的な形で含まれているのである。

そして、アートマンとブラフマンとの共通点は無限者として表現されるもの、あるいは虚空に他ならない。シャーンディリヤは、アートマンとブラフマンが本質的に等しく無限なるものであることを説こうとしたのだ。

 

また、プルシャとしてのアートマンはすべてを行ない、すべてを欲し、一切の香を有し、一切の味を有している。人間が意図・意思から成るものとした。この思想によれば、人間はこの世において意図した通りに死後の存在がきまると考えた。

したがって人は心を静かならしめて、万物の真理を瞑想すべきであると考えた。

 

プラヴァーハナの五火二道説

reincarnation - Google Search | Reincarnation, Bhagavad gita ...

プラヴァーハナは王様だった。彼は王族のもので集まった時に、五火二道説を自ら進んで教えようとしたが、教えようとした相手が人々の面前で教えられる屈辱に耐えかね、相手が逃げ去ってしまうという珍エピソード付きだ。

五火二道説には、輪廻と業、そして知識の重視があらわれている

まず、五火説は人間の死後の生まれ変わる過程を、5つの祭火に見たてることによって暗示的に説いている。

死んで火葬される→①霊魂が煙にのって月までいく②雨になる③地上に降り食べ物になる④男子の精子になる⑤赤ちゃんになって再生する。そっからは基本的に無限ループ。

次に、二道とは祖道と神道のこと。祖道は、死んで月にいって、この世に降りて再生する普通の道のこと。神道とは、さっきの五火の教義を知り、森林において苦行や真実を求めて念じる者が、死後にブラフマンに導かれてもう地上に戻ってこないこと

ちなみに、地上に生まれ変わる時は前世の業によって決定され、祭祀をふくめ浄らかな行ないをした者は、バラモン・王族・庶民の階級に生まれ、汚い行ないをした者は犬・豚・賤民に生まれる。

また、その他のマジの極悪人はこの両道に入れないで、虫けらになる。

そんな感じで、神道は知識によって解脱する人、祖道は善人の行くとこ。第三の場所は悪人の行くところだ。(←三道ですね。)

ここには輪廻と業の観念がはっきり見てとれることと、業(善悪の行い)より知識を重視してることがわかる。

 

ウッダーラカの有論

ウッダーラカの有論は、息子のシュヴェータケートゥに世界がどのように成立しているか教える中で説き明かされる。はたから見るとただの哲学好きの親子の話だが、この親子話がなんと古代インドにおいて、恐ろしいレベルにまで達していたのだ。

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ウッダーラカの一般的なポイントは梵我一如を有と三元素によって、より学術的(分析的)に示したことだ。

まず、彼は宇宙の初めは有であるとした。なぜなら、無から有は生まれないからである。

この有は、すべて事物の生滅・変化を可能にする根底である。また、人間の感覚や認識能力には限界があり、この有は決して理解できないような深淵であるとしている。

有はまず『われ多とならむ。』という意欲を起こして火を創出した。次に火が意欲を起こして水を創出。その水がまた同じ意欲を起こして食物(後世の解釈によると地)を創出した。

そこから彼は有に由来する火・水・食物(地)という3つのエレメンツの組み合わせで世界内の現象のすべて成立を説明する。例えば、普通に観察できる火は、火・水・食物の3つから構成されているが、ただ火が優勢であるにすぎないとした。

また、彼は、人間の生命(気息)なども含め、すべての事象をこの3つの元素からなるとした。そして、一切の現象はただ、これら元素の構成バランスによってその相を異にしているのであり、すべての変化あるいは区別は、ただ人間の言葉による捕捉すなわち名称にほかならないとした。

さらに、そのエレメンツすらも仮の姿で、すべては有という万物の変化を可能にする人間の認識能力を越えた恒常・不変の実在に帰着するとしたのである。

想像してみてほしい。ある日お父さんから普段信じている神話(現代の科学)と全然異なる理論で世界を説明され、それが現代の水準を遥かに凌いでいた時の息子の気持ちを。

ヤバ過ぎる親父は繰り返し言う。

『この宇宙はこの微細なものを本性としている、それが真実なのだ!それがアートマンである、それがお前である(tat tvam asi)、うおお!シュヴェータケートゥよ!』

ウッダーラカ哲学においては、宇宙(一般的にはブラフマン)も個人存在(アートマン)も、単なる有の変異あるいは三つのエレメントに過ぎず、その区別は人間の認識能力によるものであり、真実ではない。両者は本質的には等しく有から生み出された現象であり、何ら差別はないとした。

 

ヤージニャバルキヤのアートマン論

(女神サラスヴァティーがヤージュニャヴァルキヤの前に現れる場面)

ウッダーラカには弟子がいた。それがヤージニャバルキヤである。そしてなんと、このヤージニャバルキヤは、後に国王によってバラモン学識者の中の最高者と認められることになる。

アートマン論のポイントは、アートマンの実在を認め、アートマンによってこの世の苦しみから解脱できるという価値を示したところである。

File:Menaka and Vishvamitra, in a painting by Raja Ravi Varma.jpg ...

まず、彼はアートマンをすべての実在とみなしていた。妻マイトレーイーとの対話では、次のように言った。

われわれの経験するありとあらゆるものはアートマンにほかならい。

いきなりTHE☆アートマン論である。彼はすべての現象はアートマンの吐き出したものである、として続けて妻に言った。

「ああ、実に夫を愛するが故に夫が愛しきには非ず。アートマンを愛するが故に愛しきなり。ああ、妻を愛するが故に妻が愛しきには非ず。アートマンを愛するが故に妻が愛しきなり」と。

立て続けに子孫や財宝、家畜、生命あるもの、世界、神々、ヴェーダなど、とにかくすべてのものは、それ自体を愛するからそれらが愛しいのではなくて、アートマンを愛するから愛しいのであるという。もうとにかくアートマンだ。また、彼はアートマンがわかればすべて理解できると言った。

 

Yagnavalkya | Amar Bharatiya -- A humble tribute to the great ...

また別の日に、ジャナカ王の宮廷におけるサミットに呼ばれた。

そこである人が、「では、アートマンとはなんですか?」と聞くと、彼はこう答えた。

「見るという働きの主体である人自身を見ることはできません。聞くという働きの主体である聞く人自身を聞くことはできません。(中略)…これが、あなたに存するアートマンであり、万物内在のアートマンなのです。これ以外のものは苦に充ちています。」

つまり、アートマンは常に認識の主体(認識する側)であり、認識されることはないということである。

では、どのようにしてアートマンを認識するのか。前述したように、アートマンは普通の現象ではなく、純粋な叡智、人間の認識を越えたものである。しかし無ではない。

彼は言う。それは否定を繰り返すことによって示されると。

アートマンは認識されないから得るこのできないものであり、破壊されないから、壊れないものであり、縛られない、何も畏れず、何ものにも害されない、不死のものなのだと説いた。

人間の肉体は諸々のエレメンツから構成されていて、それらが分解すると、肉体は消失し、死後には存在しない。しかし、相対有限の万物を超えたアートマンそのものは不生不滅である。

そして、ヤージニャバルキヤはアートマンをとにかく真似することによって不生不滅の境地、つまり輪廻から解脱ができると説いた。つまり、心を鎮め、五感を制し、欲望を棄てるために苦行に堪え、瞑想に入り、自己のアートマンにおいてアートマンを見て、万物の本体であるブラフマンを見るのだ。

彼はサミットの主催者であるジャナカ王に向かって、そのように知れば、人間は罪苦を離れ、なにも恐れることの無い世界(無畏の境地)に到れるのだ、と説いた。

真理を求めていた王は感服し、「ヴィデーハ国民と私はヤージニャバルキヤ先生の命示を待つものです。」と言ったという。

バラモンたちのアートマンに関する公認のサミットが終結し、この公議の結果、ヤージニャヴァルキヤは王から『ブラフミシュタ(バラモンの最高者)』と認められた。

このようにして、ブラフマン、アートマン、業、輪廻、解脱をはじめとするバラモンの教義が展開したのである。

 

参考文献:
・「インド思想史(中村元)」
・「ウパニシャッド(辻直四郎)」
・「二道説について(大友康敬)」
・「梵我一如とウパニシャッド(湯田豊)」
・「ウッダーラカ哲学の究極にあるもの(湯田豊)」